ライブに対して腰が重くなった
こんばんは。
すこし前から考えていたことをざっくり書きます。
わたしがテニミュにはまった2013年、ライブ本数は23本でした。そしてその前年、2012年のライブ本数は24本です。
その翌年からテニミュ、そして観劇という趣味を増やしてしまったわたしのライブ本数はおよそ半減します。2014年のライブ本数は12本、2015年のライブ本数は10本でした。
そして2016年、わたしが今のところ確保しているライブのチケットはPeople In The Boxのマンスリークアトロライブの4本ぶんのみです。
今まで足を運んでいたバンドでもいろいろと情報解禁はあるものの、なんとなく重い腰をあげられずにいます。
この理由としてあげられるのは、
・体力の低下
・頭がわるくなった
・情動を観劇で得るようになった
この3点だと思います。
・体力の低下
もうこれはそのままです。ねんれぃのせいと以前ほどアクティブじゃなくなったせいだと思います。
2010年や2011年のわたしはRIJやCDJなどのフェスにも楽しく参加していました。けれど今のわたしには、どんなに魅力的なラインナップだとしてもRIJに行って朝から晩まで楽しくライブを観る自分のビジョンが思い描けません。
2時間程度のワンマンライブにたいしても、本編はともかくとして開場から開演が以前よりつらくなりました…。ホールライブと柵の取れる整理番号がだいすきです。
また、わたしは集中力がありません。
ライブ中に意識がそれてしまったり、ライブ本編とは関係のないほかごとを考えてしまうことが多いです。集中できなくなるとそのぶん疲れも感じやすくなります。
視界がひらけていて集中しやすいので、ホールライブと柵の取れる整理番号がだいすきです。
・頭がわるくなった
ライブにはセットリストがあります。
1曲1曲にストーリーがあり、ミニアルバムやアルバムにストーリーがあるように、セットリストにもストーリーがあると考えています(ストーリーという表現は適切ではない気もしますが…)。
このストーリーを読みといたり感じとったりする力が激減しました。というよりも、もともとあったかすらわからないです。
でも、ライブ中に点と点を線にする力が以前よりなくなったな、と感じています。
曲を聞いているときに思い出したり考えたりすることが、なんだか散漫になったような気がします。
・観劇で情動を得るようになった
上記2点に2013年からのもろもろを混ぜた回答がこれです。
観劇はほとんどの場合着席した状態でできます。そして追うべき話のすじが比較的わかりやすいかたちで客席に示されています。劇場にもよりますが、ある程度の視界が確保されていて、お話があるので没入感を得やすいです。
体力も集中力もない、点と点を線にするのがへたになったわたしにとって、観劇はライブよりも今の自分にあったかたちで情動を得られる現場に思えました。
もともとわたしが現場に足を運ぶ動機は、情動を得たいからです。そして、情動を得る方法がライブでなくてはならないとは思っていません。このスタンスはそれこそTwitterをはじめてすぐのころから変わっていません。
すごい小説を読むぶわってかんじも、すごいライブを読むぶわってかんじも、突き詰めるとあんまり変わんないんだよね。だったらもうちょっとバンドしぼってライブしぼって、本買えばって思うけど、本買わないでもっとすごいバンド探したら、とも思う
— あわあわ (@honeyx_xtrap) 2010, 6月 24
NO MUSIC, NO LIFE.になれなかったわたしは、たぶんNO EMOTION, NO LIFE.です。
この先観劇以外のなにかを見つけるのかもしれないし、5年前のわたしのように小説やまんがに戻っていくのかもしれないし、またライブに行くのかもしれないです。
つよい言葉でざっくり書いてしまいましたが、観劇するひととライブに行くひと、どちらがどうとかそういう話をしたいわけではないです。もし読んで気分を害されたかたがいたらすみません…。たぶんすごく語弊がある文章だと思います…。
今のわたしはそういうふう、というブログでした。